白金の歴史

白金の名前の由来

応永年間にこの地を開いた「柳下上総介」氏が、大量の銀(読みはシロカネ)を所有していたことから、「銀長者→白金長者」と呼ばれ、"白金"がそのまま地名になったとされています。
銀の読みと同様に町名も、しろかねと濁らないのが正式で、『小田原衆所領役帳』では"白銀"と記されていましたが、読みはやはり"しろかね"だったようです。

白金の歴史

「御府内場末往還其外沿革図書」より

江戸時代は、豊島郡と荏原郡の境界線上にあったこの白金村は、区画が定まらず入会地(共同耕作地)とされました。

明治に入り、東京府へ編入され、武家地跡に白金下三光町、白金上三光町、芝白金丹波町などが起立しました。
明治11年(1878年)に一旦芝区に所属しますが、白金志田町・芝白金丹波町以外は荏原郡へ所属替えとなり、13年後、再び芝区に編入され、芝白金今里町、東名光(ひがしなこう)、西名光(にしなこう)、松久保、雷神下などをあわせて芝白金三光町となり、昭和22年(1947年)、港区の成立により芝の冠称を除き白金三光町となりました。

昭和44年(1969年)1月1日「住居表示」の実施により、麻布新広尾町、麻布田島町、芝三田老増町、白金三光町、白金志田町、白金台町などの全域または一部をあわせて現在の「白金」となりました。
明治も半ばまでは、原野田畑が多かったのですが、その後、宅地化し、一・三・五丁目には、中小の工場ができ始め、小住宅が増え、古川沿岸工業地帯の一翼を形成しました。二・四・六丁目の台地が邸宅化したのと対照的な変化ですが、聖心女学校(聖心女子学院)や北里研究所のような文教的な施設もありました。奇数偶数丁目間の道の新設は大正初年であったと考えられています。

戦後は、台地上に高級なマンションが現れ、一・二丁目東辺に桜田通りが拡幅あるいは新設されるなどの変化があり、一帯に建築物は更新されてきていますが、奇数丁目と偶数丁目の町況の相違は今日も続いて区内の代表的な二様の町を形成しています。

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